来るべき書物の予告篇

海外文学を中心とした書評、作家志望者のためのアイデアノート

イリヤ・カバコフから来るべき書物

『イリヤ・カバコフの芸術』

 沼野充義

馬鹿げた奇想天外なものに見えるアイデアばかりだが、この一つ一つがユートピアという砕け散った「大きな物語」の破片なのである。

 イリヤ・カバコフの芸術 (五柳叢書)

 

イリヤ・カバコフ(1933~)

ウクライナ出身。「ソヴィエト連邦」を主なテーマとした芸術家。

挿絵・絵本画家。アーティスト。

僕の周辺でイリヤ・カバコフを知る人はいままでいなかった。作品は比較的明確で、また作品のコンセプトを豊富なテクストで語るのが彼のスタイルなので現代アートの入門としてもカバコフは適していると思うのだが、まだ日本での知名度は高くないのだろうか?

そこで今回は事典風に、イリヤ・カバコフの作品世界を紹介したい。

虚構の世界観に虚構と知りながら足を踏み入れ、その世界を体験し尽くすのがカバコフ流なのだから。

 

ソヴィエト連邦

正式にはソヴィエト社会主義共和国連邦。社会主義の革命家たち、および芸術家たちによって構築された想像上の共同体。ユートピア芸術のひとつ。

後には国家というシステムの持つ不条理性の実験的表現の場となり、言論の統制、罪状のわからぬ突然の逮捕、隣人の蒸発などといった幻想的な日常を描いた作品としてM・ブルガーコフ巨匠とマルガリータ』、V・ペレーヴィン『チャパーエフと空虚』などが評価されている。

イリヤ・カバコフがその作品の共通した世界観として提示したことでも知られる。

決してソヴィエト権力に対するノスタルジーとか、その復権への夢を表しているわけではありません。思想上の主眼は、社会主義は良いものだ、ということです。良いものであるだけでなく、まさに生の祝祭なのです。しかし、社会主義には決して手を触れてはなりません。・・・ユートピアの中だけのものであるべきで、決して実現させてはならない、「実行に移し」てはならないのです。

 

カバコフが1991年に発表したインスタレーション(展示/設置)『赤い車両』はその代表例である。

インスタレーションの第一構成部は木造の梯子状であり、未来へと上昇していくユートピア的歴史観を表す。

第二構成部は赤色に塗られた車両であり、側面部に窓はなく、かわりに「社会主義リアリズム」(ソヴィエト・シリーズの作品群に登場する美術様式で、国家のスローガンを視覚化したものに他ならない)の絵が掛けられている。車両内は薄暗いステージのようになっており、観客は期待とともにそこに乗り込むのだが、どれほど待っても何も起こることはない。

やがて待ちくたびれた客が入り口とは反対側から車両を降りると、そこにはインスタレーションの第三構成部が広がっている。それは壊れたタラップ、包装紙の切れ端、板や段ボール、空き箱といったガラクタの山である。観客は第一・第二構成部を作るために使われたそういった残骸が、そのままそこに放置されている様子へとたどり着く。

それこそ作品内で登場人物たちがソ連という理想国家の崩壊後に見る、「未来の後」という光景を表したものなのである。

トータル・インスタレーション

・・・・・・「展示空間のすべてが全面的に変容し、観客も通常の町や美術館の状態から締め出されて、観客のために作者が構築した特別な世界の中に入っていく」(カバコフ)ことを目的とするのである。イリヤ・カバコフが初めて提唱し、彼の活動の大きな部分を占めている。

世界観そのものを作品として提示することがその特色であり、そのためにカバコフの作品は強い物語性を持つ。いわば物語を空間というテクストによって描くのである。

中でも特異なのが『十の人物』という連作インスタレーションであり、共同アパートを舞台に奇妙な観念(コンセプト)にとりつかれた思想家/芸術家の姿を描いたものである。そこで観客は彼ら十人の人物たちの暮らしていた部屋をのぞき見、そこに残された多くのテクストから彼らの奇天烈な夢と生活の様子をうかがい知るという形で作品を鑑賞する。

 

その一つ「自分の部屋から宇宙へと飛び去った男」(上写真)では、封鎖された入口から中をのぞきこむと、壁一面に張り付けられたプロパガンダのポスター、ロシア宇宙主義的なイラストレーションの数々、用途不明の手製の機械、その設計図、そして大穴の開いた天井が見て取れる。また廊下の壁には警察が作成したのだろう聴取のメモが貼りつけられている。観客はそれらを手掛かりにして断片的な物語を自ら解き明かしていくのである。すなわち、ここに住んでいた男は自作の理論によって宇宙へと飛び去って行ったのだ。

 

       カバコフのインスタレーションの特徴が多くのメモ・テクストである。

       観客は作品を文字通り「読み解いて」行く。

また水戸芸術館に設営された『シャルル・ローゼンタールの人生と創造』(上写真)ではカバコフはシャルル・ローゼンタールなる架空の画家を創造し、「技術の習得に優れていた画家、ローゼンタールが、20世紀初頭という時代の影響を受けながら多様な表現を試みるが、 若くして夭折するという設定のもとに、イリヤ・カバコフが平面作品を制作し、展覧会はひとつの物語のように展開される※」というメタフィクショナルな展示を行っている。

そのような重層的な設定のもとでの展示の集大成的であるのが1995年から制作された『プロジェクト宮殿』であり・・・・・・

プロジェクト宮殿

そのコンセプトはソ連に暮らす様々な市井の人々の夢想したプロジェクトを集めた宮殿、というものである。全体は「自分を改善する方法」「世界を改善する方法」「プロジェクトの出現を刺激する方法」に分かれているが、それら展示されたプロジェクトの一部を挙げると

「天使の翼を作って、人知れずこっそりそれを着用する」

「千メートルを越す高い梯子のてっぺんで天使に出会うのを待つ」

「地上二八から三〇キロの高度に八六台の特別なパネルを打ち上げて、地上の<生命    

 エネルギー>を平等に分配する」

「重力の向きを逆転させる装置を作って空に舞い上がり、空中に暮らす」

など、その一つ一つを幻想的な掌編作品と考えることもできる。

・・・・・・カバコフの言う「プロジェクト」は「馬鹿げた奇想天外なもの」に見えるかもしれないが、それらは同じくらい奇想天外な観念によって作られたソ連、そして20世紀という時代を風刺的に表すのである。

 

また同時にカバコフは新しい物語の表現方法についての探究者でもあった。トータル・インスタレーションというしばしばメタ的構造を持つ展示によって、メモやノート、インタビュー、コメント、夢想的な計画、作品の注釈といったそれまで文学作品たりえなかった「コンセプトそのもの」を作品として顕したのである。

『プロジェクト宮殿』とはそれら断片的な物語を容れるための「枠物語」、三次元化された『千夜一夜物語』であったのだ。

                         (「代替現実」の頁を参照)

 

           「プロジェクト宮殿」の図面

         実際に設置されたもの

        このようなプロジェクトの説明とその模型が展示される

 

 

水戸芸術館公式サイトより