来るべき書物の予告篇

海外文学を中心とした書評、作家志望者のためのアイデアノート

「千話一夜」から来るべき書物

物語を創るというお祭り

 

 

物語編集力

  松岡正剛『物語編集力』

 

物語の体操 物語るための基礎体力を身につける6つの実践的レッスン (星海社新書)

  大塚英志『物語の体操』

 

ゲームストーミング ―会議、チーム、プロジェクトを成功へと導く87のゲーム

『ゲームストーミング ―会議、チーム、プロジェクトを成功へと導く87のゲーム』

 

 

 

物語がもっともおもしろいのは、それが生まれる瞬間だと常々思っている。

例えばここに一個のアイデアがある。

「最近『海底二万マイル』を読んだから、何か潜水艦の話を書きたい」

これが物語の種だ。

 

ではこれを膨らませていこう。

潜水艦に乗っているのは何者か・・・人じゃなくロボットにしてみよう

なぜ潜水艦に乗っているのか・・・何かの任務だろうか

・・・もうずっと海底をさまよっているのかもしれない

・・・ノーチラス号のように隠れているのかも

・・・人間じゃないから浮上の必要もない

・・・もう何百年も海底にいるのかも

・・・じゃあきっと暇だろう

・・・ロボットが暇だと思うだろうか

・・・暇という感情を発見する

・・・では何をしているのか

・・・暇つぶしだろう

・・・どんな

・・・自分たちの歴史でも作り始めるかもしれない。とにかく暇で時間ならある

・・・たしかにロボットは自分たちの歴史を持たないから

 

という風に、「潜水艦の中に閉じ込められたロボットたちが、本を参考に自分たちの歴史や辞書や宗教を考え、人間の歴史をなぞっていく」という物語が生まれる・・・かもしれない。

 

よくこうした物語づくりを友人と酒を飲みながらしたが、わかったのは物語はひとりでつくるよりみんなでつくったほうが面白いということだ。

できれば酒か、でなければ珈琲などを飲みながら、暇にまかせてワイワイガヤガヤと話していくほうが、自室でうんうん唸っているより千倍もオモシロイ。これはもう一種のお祭りというか、祝祭として機能するのだ。

そして生産的でもある。

 

僕はあまり詳しくないのだが、演劇の世界には「ディバイジング」というものがあるらしい。劇作家と演出家と演者が集まり、話し合いながら即興で舞台を作っていくという作法なのだという。理論武装的な引用になるが、やっぱりそうした「祭り的物語創作」を実践している人間はいるんだなと思う。

調べてみると「実験的作品」を目指すとか、「地域交流・教育目的に役立つ」などと色々と目指すところがあってのものらしいが、その一番はやっぱり楽しいということだろう。

物語をつくるのは楽しいのだ!

 

だから以前から、僕は「千話一夜」というものを仲間内(といってもものすごく狭いのだが)で話していた。これはお祭り、ある種のイベントであり、ある種でパーティーの企画なのだが、とにかく一晩かけて互いに物語のアイデアを出しあい、それを膨らませて、場合によってはコラボさせて、発展させて、ひっくり返してみたりして、一夜で千の話をつくる勢いで物語をつくりまくろうというものである(その様子を録音して、そのまま書き出して本にしようという案もあった)。

 

個人的にはかなり熱いと思うし、是非ともいつかやりたいと思っているのだがなかなか実現しない。かなりの体力と気力を必要とするだろうし、やるのにそれなりの覚悟がいるからなのかもしれない。

とはいえ、この縮小バージョンなら実験してみたことがある。

5、6枚のイラストを題材に5人のグループでひとつの物語をつくるという企画だ。

ルールは三つ。

①イラストは全部使ってもいいし、好きなものだけをすきなだけ使ってもいい。

②全員で話し合ってひとつの物語をつくること。

③全員がペンを持って、ホワイトボードを使うこと。

 

実のところ時間を15分ほどしか用意できず、失敗する可能性の大きい実験だった。

そして実際、最初の5分ほどはイヤな空気が流れていた。

どのイラストを使う?主人公は?どんな物語にしようか?

そんな問いが交わされるが一向に進む様子がない。

たしかにゼロから物語をつくるというのは簡単じゃあない。助け舟を出そうかなと思ったとき、ブレイクスルーが起きた。

それは「この絵のキャラクターってロボットっぽくない?ロボットが主人公で『アトム』の話ってあったよね」という言葉からだった。

そこから『鉄腕アトム』でアトムが生みの親である天馬博士に捨てられてしまったというエピソードが想起/共有される。

・・・じゃあこのロボットもアトムみたいに捨てられちゃうんだよ

・・・じゃあこの絵のキャラが捨てた博士だね

・・・なんで捨てたのかな

・・・博士は子供がわりにロボットをつくった

・・・でも本当の子供が見つかった

・・・それでロボットは捨てられて、復讐を考える

 

と物語は一気に加速していった。もうここから完成までは早かった。この瞬間、僕はかつてない興奮を味わい、実験の成功を感じていた。

すごいのが、『鉄腕アトム』のプロットをなぞるところから始まりながら、全然違う方向へ物語が走っていくところだ。ロボットが捨てられる理由などはまるで映画『A.I.』だし、復讐譚になるというのも完全なオリジナルだ。

この後、個々にその日のプロットを持って帰って小説にするという宿題を出し、プロットは同じはずなのに各々の文体や視点や結末や物語の重点の置き所などがあまりにも異なっていることにまた仰天したのだけれど、この実験でわかったことは以下のようなものだった。

 

・共有できる物語の「型」を使うと創作しやすくなる。

・物語創作にはゲーム性が必要である。

・物語創作は、設定/枠物語があるとより容易になる。

・物語創作はやっぱり楽しい!

 

二つ目と三つ目は実はセットになる。例えば○○な理由で、○○な物語を作って、という目標があれば、最初の気まずい時間はなかっただろう。「自由に」というのは多人数での物語創作の場合、逆に創造性を削ぐものになってしまう。

だからある程度の「枠」が必要になるのだ。枠物語というのは文字通り「カンタベリー物語」や「千夜一夜物語」のアレ、TRPGでプレイのベースとなる物語設定のようなものだ。たぶんそういうところを工夫して物語創作そのものに物語性を持たせたらもっと盛り上げることができるのではないかと思う。

たぶん千話一夜の企画にもゲーム性と枠物語がなかったことが、実現しなかった一番の理由なのではないかと思う。

例えば最近のニュースを物語にデフォルメするとか、「こういう設定で物語を見ると?」というプログラムが足りなかった。

 

今度また大掛かりに物語創作の実験(と言うと私欲で利用しているようで表現が悪いが)をする機会があるが、そこでは既存の物語を組み替える/書き換えるという枠物語を設けて行おうと思っている。例えば物語の主人公を変える、バッドエンドからハッピーエンドに変える、等々だ。

おそらく、すばらしくエキサイティングなものになるだろう。見ている方からしても、目の前でどんどん物語で育っていく様というのは物凄いものがある。

またここで得たノウハウを活かして、さらに刺激的な物語創作のプログラムを立てられるだろう。

 

個人的には、これからはますます「普通の人が物語をつくる時代」になると思っている。宗教も主義も機能不全にあるグローバリズム真っ只中の先進国において、人間に生きる意味をもたらすのは何か。

それはやはり物語だと思う。『あまちゃん』でワイワイいっている人の中に、社会学・批評系の人間が多いというのはそういうことでなないのだろうか。アイドルの物語というより、物語がアイドル(=半信仰/半消費)として機能している。

物語が世界に意味を与え、崩壊を防ぐのだ。

この辺の話はミルチャ・エリアーデの『聖と俗』あたり(ド定番だが)を読むとよくわかる。つまり神話・聖なるものの存在があってはじめて、人間は意味を持つ世界観を築き、その中で生きることができるのだ。意味を失ったとたん、その宇宙は崩壊することになる。

 聖と俗―宗教的なるものの本質について (叢書・ウニベルシタス)

ミルチャ・エリアーデ『聖と俗 宗教的なるものの本質について』

 

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 ジョゼフ・キャンベル『神話の力』

 

 

今はまだ、物語は与えられるもの、外から見つけてくるものだ。

しかし宗教、主義に次いで国家や民族という物語が機能しなくなり、家族という物語が空中分解し、そしてマスメディアによる物語の流通が途絶える日が来るかもしれない。

だから、ではないが将来的には、自分の中から自分の物語を引き出し、形にするという方法が必要なのではないかと考えているのだ。

それが「普通の人が物語をつくる時代」だ。

自分自身の、自分だけの神話を得ること。それがのっぺりとした世界を泳ぎわたっていく上での指針となり、アイデンティティとなるのではないか。

ここにはまた「ライフストーリー」「ナラティヴ」というキーワードが関わってくるのかもしれない。

またできた物語をどのような形で提示するのかという問題もある。小説というのを完成形とするなら、最終局面でやっぱりひとりで苦労してこしらえるという段階が発生してしまう。

かといってプロットだけでいいのか?アンビルトの物語でいいのか?

いや、細部も欲しいだろう。その辺の解決策はまだ全く見えてこない。

しかしテクノロジーが解決するのではないかという予感はある・・・。

 

そんな自分らしくもなく公共的な未来を見ながら、いつか「千話一夜」を実現させてみたいと思う。