【予告】サーカスとしての読書から来るべき書物
僕たちは一冊の書物を手に取る。好みの小説で良いだろう。
そして読む。
ああ、おもしろかった。と読み終える。
その後どうするだろうか?
ノートやブログに読書メモを残すだろうか?
友人と感想を論じ合うだろうか?
それともそのまま何もしないだろうか?
このところ考えているのは、この「物語を読んだ後」あるいは
「物語を読む前」に、その物語を百倍楽しむ鍵はないだろうか、ということだ。
つまりは何かしらの「ゲーム」を仕掛けられないかということだ(これを突き詰めると前回の物語を生み出す遊び=「千話一夜」となる)。
先日実際にそのプロトタイプを行う機会を持った。試したのは小説を読んだ後に、その内容を書き換える=書き加えるというゲームだ。
突き詰めると「テクストから新しいメッセージを編集する」というのがその核だろう。
まま手応えはあったと思う。
しかし反省点も多かった。
ひとつだけ挙げると、書き換え=書き加えの作業を「自由に」してはならない、ということだ。今回の実験では小説ごとに課題を決め、読後にそれに答えて書き換えるというのが基本ルールだったが、その際に「どのくらいの分量で、どのようなスタイルで、どのような人に向けたメッセージとして」書くのかが明確ではなかった。
前回挙げた「枠物語」だ。
上に書いたような書き換えゲームを僕は「リフレーミング」あるいは「リフレーミング・リーディング(というのも、書き換えることによって読むのが目的だからだ)」と呼んでいるが、やっぱり一番に練るべきはこの書く上でのルール、制限のように思う。この制限と自由度のバランスがゲーム性を持たせられるかの鍵であるようだ(つまりオープンワールド・ゲームではだめで、インベーダーかテトリスのようなものをまずは目指さないといけない)。
逆に言うならば、それをゲームとして完成させられれば商品価値を持ちうるということなのかもしれない。今回の実験で得た最大の成果は、リフレーミング・ゲームは子供でも楽しめるということだった。
詳しい実験の分析と次へのアイデアはまた考えるとして、本と物語を使ったゲーム(であり、かつイベントであり、組織)の実現に向けて少なくとも一筋の光は見つかったよ、ということを様々な人に伝えたい。
最後に、これまで自分が考えてきたことと合わせて、リフレーミング・ゲームのコンセプトをまとめておきたい。ここは最大限にケレン味たっぷりにいきたい。
①全く新しい物語の方法を探求すること。物語にドップリと没入する環境を模索す る。
②作り手、書き手よりも物語の読み手、受け取り手(=物語を愛するが、自由に作り出すことはできない潜在的作者)の側にたち支援する。
③メモやノートなどのプレテクスト的なもの、リフレーミングによって作られるパラテクストをも完全な作品、アートとして捉える。
④物語による学び、癒し、救いを重視する。
⑤現実世界を拡張・代替しようとする。
……以上!