来るべき書物の予告篇

海外文学を中心とした書評、作家志望者のためのアイデアノート

「書けたかもしれない小説」から来るべき書物

『完全な真空』

 スタニスワフ・レム

自らの誕生を描く小説は、後戻りの第一歩に過ぎなかった。今ではもう、小説がどのように生まれて来るかを示す作品を書くものなどいない。具体的な創作過程の記録などというのも、あまりに窮屈だ! 今、作家たちが書いているのは、ひょっとしたら自分に書けたかもしれないことについてである・・・・・・。

頭の中に渦巻くありとあらゆる可能性から、作家は個々の輪郭をつかみ出す。そして、普通のテキストとなることは決してないこれらの断片の中をさまようことが、現在、小説の防衛線となっている。

・・・そこで作家がかろうじて書くことができるのは、自分が書きたいと思ったことについての本を、いかにして書こうと試みたか、云々、についての本でしかない。

 

 本を読めないという時期が定期的にある。

頁を開いても言葉が目に入ってこない。物語の進みに頭が追い付いていかない。

気が付けば物語内の時間進行を無視して頁を進めようとしてしまう。

本と頭がうまく同期しないのだ。

 

そんな中で読むのなら物語がない本の方が良い。むしろ、一文~一段落ぐらいに充分に魅力的な内容が詰まっているのが理想的だ。

そして本書はまさにそうした本のひとつなのだと言える。

 

スタニスワフ・レムは日本では『ソラリス』の作家として有名だろう。

外宇宙を舞台に人間の、というか人類の内宇宙を描き出すという、現在でも多い思弁SFの基礎を作った一人と言えるだろう。

彼の作品には往々にして「コミュニケーション」がテーマとして現れてくるのだが、どうやらレムは何か表現しがたい、人間の認識を超えたものをずっと描こうとしてきたように思える。小説の主題にはできても、小説の中で描くものとしては、最も不向きなものだ。

 

前述したように僕はこの本をひどく不誠実に、所々虫食いのように読んでいるにすぎないのできちんとした書評をすることはできないが、この『完全な真空』には文字通り真空(=欠如)によって描き出すほかない、そうした「実現不可能なアイデア」が生のままで表されているように思う。

本書は「存在しない本についての、架空の書評集」という構成を持っているが、そこでレムは小説というシステムが実現できなかった、むしろ「物理的に不可能」の一言で葬られてきたアイデアばかりをここぞとばかり実証しようとする。

 

例えば人類のすべての文化的キーワードを内包し、連想ゲームのごとく野放図に「注釈」を広げてゆく百科事典的小説。

例えば書くことの無意味について思考するあまり自分自身の存在をも否定し、消去してしまうにいたる「反小説」。

例えば読者に戦いをいどみ、罵詈雑言を投げつける二人称小説。

 

それ以外の比較的平凡な小説の構想と思われるものも、何か実現どころか存在すら不可能な概念を追い求めていく「否定神学の空虚に突進するような」共通のオブセッションをいだいている。言わば極めつけのヌーヴォー・ロマン(=反小説)的な思考実験こそが本書の魅力だが、おそらくそれこそレムの作品世界を支えてきた彼自身のオブセッションなのだろう。

そしてそれだけでなく、いや、それだけに本書は変幻するソラリスの海のごとく読者自身の「書く/読む」ことについてのオブセッションを顕にするだろう。

試しに何人かで本書の読書会を開けば、どの短編を評価するか、どの短編を否定するか、あるいはそもそも本書を受け入れられるかどうかでその人間の文学観がはっきりとすることだろう。

 

小説のアイデアとアイデアの小説

そして僕自身が本書を「小説についての小説」として注目しているのは、そこに冒頭に引用した数節があるからだと言って良い。

ひょっとしたら自分が書けたかもしれないこと

自分が書きたいと思ったことについての本を、いかにして書こうと試みたか

そうした想像上の「ありえざる物語」をいかにして表すことができるかということに、ぼくはずっと興味を持ってきた。

というのも、元々小説のアイデアとは小説によってのみ表されるべきなのか、小説以外は作品とは言えないのか、という疑問があったからだ。

 

例えば、建築において「アンビルト」という分野が大きな役割を演じたことは以前にも

また美術の世界においては「コンセプチュアル・アート」という潮流が存在していた。彼らは作品の構想、メッセージこそがコンテンツであり、実作はその仕上げとなる手仕事の細工でしかない、構想が価値であると看破した。特に「アート・アンド・ランゲージ」一派は言語による芸術を訴え、芸術の評論行為もまた芸術作品そのものなのだと宣言した。

今日ではコンセプチュアル・アートはむしろ普遍化し自明の存在となったが、彼らは美術における作品一辺倒の姿勢を吹き飛ばそうとしたのだ。

 

しかし文学はどうか?

ヌーヴォーロマンが特異なゲームとして消費されて以降、小説の「新しさ」はリアリズムとの向き合い方に終始していたように見える。

一方でそこに描かれた内容は「人物が登場し、それは幾人かの主要な人物とモブからなる」「物語は連続した、関連性を持つ事件からなる」「小説は精緻な記述、描写を伴う」「快楽の装置として機能する」などの条件を行儀よく守り、そして読者も(僕自身も)道徳家のようにどれだけ上品に、優雅にその条件を守れているかで小説を評価しているようだ。

とりわけエンタメ小説においては、ハリウッド映画の文法をそのまま活用した「新しい小説」が無数に生産されている。

 

確かにそうした小説はおもしろい。確かにそうした小説は大好きだ。

それはわかる。

だけど、こうして本が読めないという白夜のなかにいると、それとは違う物語の語り方がもっとあっても良いのではないかと思うのだ。

 

 そのひとつとして、コンセプチュアル・アートのように普通の形では描けない物語を、コンセプトそのものを作品として重視することで提示する。そういう小説があっても良いと思うのだ。

ではそれはどういった本になるのだろう?

ボルヘスやレムはそれをすでにある書物の要約のノートによって実験した。

円城塔は僕には理解しきれない語りの多次元解釈によってそれを探究している。

そして僕は要約やノートですら同語反復的であると思う。

読むことについても書くことについても怠惰である僕は、メモなどどうかと想うのだ。

ノヴァーリス『青い花』 

未完に終わった本書の後半、まとめられた構想

にこそ作者の世界観が現れている

エンリーケ・ビラ=マタス『ポータブル文学小史』

「小説の時代はもう終わったわ、これからは短い話や断章、序文、補遺、脚注といったもののほうがいいのよ」という台詞がある

 

アントワーヌ・ヴォロディーヌ『無力な天使たち』

SFと純文学の境界線上にあり、断片的で結末を欠いた四十九の短い章によって、

おぼろに大きな物語と世界が見えてくるハイパーテキスト小説

 

作品以前の、プロットの文法で書かれた物語のメモ。設定資料としてのメモ。

そうした作品以前である作品(プレテクスト)、断片的なメモ群による「書こうとした/書けたかもしれない世界」の物語。

それは究極の「予告篇の文学」となるだろうし、そもそも小説というものの作り方を変えることだろう。いや、それともこれは「書けない」人間の屁理屈にすぎないのだろうか。おそらくそうだろう。

しかし、だからこそ、そうした小説とされなかったものによる文学が現れることを、ぼくは夢見ているのだ。

 

「宇宙というのはできあがった本というよりも、何か本を書くためにつくるノートのようなものであると、そう考えているのです。」

                          ソレス・カルダリーニ