来るべき書物の予告篇

海外文学を中心とした書評、作家志望者のためのアイデアノート

起こらなかった世界から来るべき書物

『アンビルト・ドローイング 起こらなかった世界についての物語』            三浦丈典

前回紹介した代替現実ゲームがナショナル・ジオグラフィックでも取り上げられていた。

http://nationalgeographic.jp/nng/article/20121011/326463/

(「研究室」に行ってみた)

第一回 代替現実でいともたやすく現実は崩壊する

第二回 こんなにすごい!代替現実

第三回 客観的な現実などそもそも存在しない?

第四回 代替現実で、ちょっと悟りの境地まで

第五回 代替現実であんなことやこんなことも

 

さて、紹介するのはこの本。

『アンビルト・ドローイング 起こらなかった世界の物語』三浦丈典

起こらなかった世界についての物語―アンビルト・ドローイング

 こういった虚構の恍惚こそが、彼の思う理想の現実だった。構造的不合理性や、ひとつのモチーフを執拗にくりかえす単調な造形は、同時代の建築家からも批判の的となったが、彼の興味は新しい未来の建築形式やひな形ではなく、演劇のような一回きりの体験、これより後にも先にもつくられない固有の建築だったから、むしろ当然のことだった。

著者はいう。この現実の存在の分だけ、無数の「起こらなかった世界」が存在していると。=「つまり僕たちは現実の時間を積み重ねて歴史をつくっていると同時に、その何倍ものパラレルワールドを日々喪失しながら、いまこの瞬間を生きているのです。」

計画されながら実現されなかった建築、そこにはそもそも実現を意図していなかった思考実験的作品、挿絵、アートまでもが含まれる。

 

そのような多彩にして空虚なアンビルト(未建設)のドローイングを集めた小品的画集。著者によるオブジェ的な解説エッセーが付き、建築という行為そのものの持つ幻想的な魅力を捉えている。

 

今回はアンビルト・ドローイングのコンセプトに従い、僕も断片的=未完成的に感想を配置していこうと思う。

 

紹介される建築家、それは建築士とは違う。まったく新しい世界を夢見る者たちが、その職に関係なく建築家と呼ばれる。本書をめくっていくと、いつしかそこには奇妙な、アンビルトの建築家・・・画家であり、絵本作家でもあり、空虚な理論家でもある、しかし常にユーモアを保ったひとりの人間の姿が浮かび上がるのだ。

 

虚構のもの=起こらなかった・起きたかもしれないものの魅力にとりつかれ、現実を疑い、現実に警告を発し、現実にしばられず、現実を終わりなく増殖し、拡散していくネガティブと紙一重の豊饒さこそが、その生となる。

そして

アンビルトの美学は実現不可能なものの美学へ。実現不可能なものの表現というオブセッションを含む。

 

 本書で紹介されるハンス・ペルツィヒのデザインした劇場

冒頭の引用は彼の作風を指したもの。

 

あるいはそれは神的な現象。人間は実現不可能なものに魅かれそれを表現・記述しようとする。神的なものを定義し、神学を構築する原理は、モダニストにはアンビルトのオブセッションと解されるだろう。

 

実現しなかったものの崇高・実現不可能なものの美学

そして実現しないという表現

ヒトラーの夢想した世界首都ゲルマニア

 

ファイル:Schuko Palace of Soviets 1932.jpg

ソビエト宮殿の案のひとつ。ウラジミール・シューコによる。

ウラジミール・タトリンによる第三インターナショナル記念塔

=“回転する”塔

 映画『メトロポリス』の未来都市

 

ただアンビルトなドローイングのみによって世界を残す。

作ることなく、世界を表す。

現代においては物質によって建築を行うことは時代遅れでしかない、

今や設計者は思念と想像力によって自らの仕事を刻むのだ。

 

それは文学にも通じるだろう。書くことは陳腐となり、書けないことについて書くことも古び、書けたかもしれないことについて書くことも試された。もはや残されたのは「書くべきことを書かない」という道しかないのかもしれない。書かない。書かないことによって顕される作品。

「人々は神を物語るのではなく、物語に神の属性を付し、崇めねばならないと考えた。ゆえにあまりに壮大、複雑、困難となる物語の構想は人の想像力と執筆力を超え、ほとんど苦行僧のごとき作家たちの集団によっても、活字には至らなかった。

しかし時代がさらに下ると、彼らは意図的にその完成を避け、不可能さゆえにそれら物語を愛した。彼らはようやくそこに神の残響を見出したのである。」

                              未整理のメモより

 

真の物語作者は実現を、完成されることによる終わりを果てしなく避けゆく。なぜなら、常に物語とともに、物語において生きたいから。

完成された書物という概念は、ユートピアでしかないのだ。

まさにその字義通りの。

 

こういう灰汁の強い建築家はドイツやロシアにはうじゃうじゃいた。彼らの大部分は生涯で一軒の小屋すら建てていないのに、作品を通して世に問いかけ、ヨーロッパ中に影響を与えていたことを思うと、いまよりよっぽど真っ当な世界じゃないかと思う。

ああ、僕はそのようなアンビルト建築家でありたいと思う。