10のリフレーミング・ゲームと「すばらしき新世界プロジェクト」
リフレーミング・ゲームとはなにか
「リフレーミング」とは心理学やコーチングで使われることの多い言葉だが、ここでは小説や物語の書き換えを意味する。
リフレーミング・ゲームとは何か。それは物語を書き換え、異なる視点から見ることにより、物語を新しい形で体験するためのゲームだ。読み方を変えるもの、書き方を変えるもの、読む以外の体験方法を提示するものなど様々で、大掛かりなものから、日常使えるものまで規模も様々である。
その主な特徴としては①グループで行うこと②「読書」「議論」「創作」が有機的につながること③何よりもゲームであり、遊戯的であること が挙げられる。
当初子どもの国語教育のため、想像力によって文章を読み解く方法として考えられた。
しかし実際、大人によってプレイされても十分に楽しめるだろう。また潜在的な作者である「書きたい・しかし書けない」人々にとってもリフレーミング・ゲームは意味を持つ。そこには読書と創作が一体のものとなり、また個によるものから共有的なものになり、小説を中心とするテキストも自在に書き換え可能な冒険的なものとなり・・・物語づくりが特権的なものから、より身近で日常的なものになっていく可能性が秘められている。
ここではリフレーミング・ゲームのコンセプチュアルなアイデアを10、紹介したい。
リフレーミング・ゲームのレッスン10
リフレーミング・ゲーム①
「収容所群島」
言論の自由が奪われた収容所ないし監獄という設定の世界で、巡回する看守の眼を盗み、グループで創作を行う。「人々に希望を与える物語」あるいは「この時代の証言」を完成させるのが目的であり、自分たちが書かなければ文学は死滅してしまうという緊張感と使命感を伴う。創作と体験ゲームの両面を持つのが特色。
リフレーミング・ゲーム②
「ターボ・フューチャリズム」
未来に書かれるであろう物語を予想するゲーム。単なるSFではなく、例えば西暦3000年を舞台に、何が失われ、何が残るのか。人間性は?愛は?そして「現代」の人間がどのようなテーマで、どのような物語を描くのかを検討する。SFのキーワードと解説を参考文献として行う。
リフレーミング・ゲーム③
「作者をさがす旅」
異なる時代、国籍、作者による複数の短篇小説を「ひとりの作者による作品」として読み、その架空の作者がどのような人間であるのか、作風、文学理論を議論する。作品に対する新しい視点が得られ、コンセプト抽出の訓練となる。
リフレーミング・ゲーム④
「コラボレーション」
2つの物語を繋ぎあわせ、リメイクするゲーム。ほぼ原型をとどめて2つの物語を結びつけるという手もあれば、2つの物語を完全に融合させ、新しい物語にしてしまうという手もある。「イリアス」と「シャーロックホームズ」など以外な組合せほど良い。
リフレーミング・ゲーム⑤
「ユートピアだより」
まずは「万人が完全に幸福な」理想社会をグループで検討し、創作する。次に賛成派と否定派に別れ、本当にそのユートピアに生きる人々は「幸福」なのかを討論する。この議論・創作を繰り返せば、理想社会は改良されるどころかディストピアに近づくだろう。
リフレーミング・ゲーム⑥
「ブックパズル」
読んだ本、テキストをルールに従って書き換える。主人公・結末・舞台の変更、様式の変更、続編の創作、新しいシーンの追加、「モノローグ(心の声)」の挿入、登場人物へのインタビューなど多岐にわたり、最も基本的なリフレーミング・ゲーム。
リフレーミング・ゲーム⑦
「ヴィジュアル・ストーリーテリング」
複数の写真、絵を用意しそれを題材に物語のプロットを作る。写真は全て使っても、逆に一枚しか使わなくても良いが、この作業をグループで話し合いながら行うことが重要。イメージからの連想、説明、その組合せ、現れる物語を楽しむ。
リフレーミング・ゲーム⑧
「夢の操縦法」
自分の見た夢を記録したもの(本物でなくても良い)を、グループで持ち寄る。それに合理的な説明を加え、物語のプロットにするゲーム。夢の読み解きは、イメージからの連想と物語の類推により行われる。最終的には千夜一夜物語のごとき夢の短篇集となろう。
リフレーミング・ゲーム⑨
「ブックショップへの長い道」
題材のテキストを読み、それを単行本にした時のブックデザインを創造する。そこから解説は?推薦文は?どんなポップを付けるか?どんな本棚に、どんな本と一緒に置くかを逆算していき、本屋の一角を誕生させる。実際に模型を作っても良し。
リフレーミング・ゲーム⑩
そして最後となるのが「すばらしき新世界プロジェクト」である。
このゲームのコンセプトは作り込まれた究極の物語世界、オルタナティブ・ワールドを作ることである。それは各々の温めてきた物語世界の設定を繋ぎあわせることから始まる。
リアリズム×幻想、ファンタジー×SF、スチームパンク×サイバーパンク、東洋×西洋、設定×設定、作者×作者。それはアメコミのフュージョン=モノを越え、どこまでも展開して止まることのない「増殖する設定地図」の宇宙だ。物語の様式や雰囲気もまた軽々と越境され、文学的テーマにはキッチュなストーリーが、ポップなキャラクターには哲学的な深みが提供される。
そこではどのような世界観でも取り入れられる。極端に異なる世界であっても、過去・未来・平行世界・メタ構造を活かして繋ぎあわされる。それはアクロバティックな文学サーカスとなるだろう。物語の具体的なストーリーではなく、本来は背景となるべき世界観設定こそがメインコンテンツとして扱われる。まさに物語作りを目的としたゲームであり、ショーなのだ。
それは物語のビオトーブであり、闘技場であると言える。カオティックにあらゆる世界観を呑み込むこのシェアワールドの群体において、立ち現れるべき未来の物語が先現する…かもしれない。いずれにせよ、このゲームの参加者は、共有するこの世界観を舞台として、自由に創作することができるのである。
断片メモ、貿易ゲーム
昨日、「貿易ゲーム」を行う機会があった。貿易ゲームとは現実の国をモデルにしたチームに別れ、不公平なルールのもとで資金を稼いでいくというゲーム。
特徴としては、元々教材として開発されたものなので教育目的で使うものとして完成度が高いこと。
そしてルール追加によって情勢がリアルタイムに変わっていくということが挙げられるだろう。
今回このゲームを行うにあたって、追加ルールのなかにさらに工夫を加えてみた。オリジナルのルール「戦争」「テロ」「核兵器」を取り入れたのだ。
どれもきなくさい、世界情勢のネガティヴな部分だが、こうしてゲームに盛り込んでみるとその「構造」がよくわかる。
例えば今回のゲームでのチームは、モデルにした国の名前で呼ぶと日本・ブラジル・インドネシア・インド・中国・南アフリカ・イランの7つだったが、まず戦争は日本対南アフリカで起きた。資源も技術も資金もなく追い詰められたアフリカからの宣戦という形だ。
そして当然ながら返り討ちにあい、国はほとんど崩壊状態となった。
そして面白かったのが二度目の戦争で、製品に貼ると価格が五倍になるという「原油シール」がアフリカで出たので、それを奪うため今度は日本の側から開戦したのだ。これはそのまんまイラク戦争じゃないかと、皆で笑ってしまった。
テロ攻撃ルールは、一対一のじゃんけんで勝てば相手国の製品をひとつ破壊できるというものだった。
敗戦で崩壊し、さらに席をはずした間に資源を根こそぎ略奪される憂き目にあったアフリカは、怒りに駆られてテロの道に飛び付いてしまった。きっと現実もこのような構図になっているのだろう。
しかしアフリカはテロの連発によってすっかり孤立していってしまった。
最後に核兵器のルールは高額の核を購入し、もし使えば相手国の全ての資源と全財産の半分を破壊できるというもの。しかし核は複数あるため、もし使用すれば反撃される可能性もある。
このゲームでは結局、核を使用する国はなかった。しかしそのギリギリまではいっていた。
検討していたのは二国。恫喝のために切り札として持っておこうとした日本。そしてトップの日本潰しを計画したイラン(!)だ。しかし反撃への恐怖が結局それを見送らせたのだった。このクラスはまだ理性的だったということか。
最終的には複数の国が連合を組んだ戦いになったが、日本・インドネシア連合がブラジル・インド連合に経済競争で負けたのが、なにかこの先を象徴しているようだった。
【予告】サーカスとしての読書から来るべき書物
僕たちは一冊の書物を手に取る。好みの小説で良いだろう。
そして読む。
ああ、おもしろかった。と読み終える。
その後どうするだろうか?
ノートやブログに読書メモを残すだろうか?
友人と感想を論じ合うだろうか?
それともそのまま何もしないだろうか?
このところ考えているのは、この「物語を読んだ後」あるいは
「物語を読む前」に、その物語を百倍楽しむ鍵はないだろうか、ということだ。
つまりは何かしらの「ゲーム」を仕掛けられないかということだ(これを突き詰めると前回の物語を生み出す遊び=「千話一夜」となる)。
先日実際にそのプロトタイプを行う機会を持った。試したのは小説を読んだ後に、その内容を書き換える=書き加えるというゲームだ。
突き詰めると「テクストから新しいメッセージを編集する」というのがその核だろう。
まま手応えはあったと思う。
しかし反省点も多かった。
ひとつだけ挙げると、書き換え=書き加えの作業を「自由に」してはならない、ということだ。今回の実験では小説ごとに課題を決め、読後にそれに答えて書き換えるというのが基本ルールだったが、その際に「どのくらいの分量で、どのようなスタイルで、どのような人に向けたメッセージとして」書くのかが明確ではなかった。
前回挙げた「枠物語」だ。
上に書いたような書き換えゲームを僕は「リフレーミング」あるいは「リフレーミング・リーディング(というのも、書き換えることによって読むのが目的だからだ)」と呼んでいるが、やっぱり一番に練るべきはこの書く上でのルール、制限のように思う。この制限と自由度のバランスがゲーム性を持たせられるかの鍵であるようだ(つまりオープンワールド・ゲームではだめで、インベーダーかテトリスのようなものをまずは目指さないといけない)。
逆に言うならば、それをゲームとして完成させられれば商品価値を持ちうるということなのかもしれない。今回の実験で得た最大の成果は、リフレーミング・ゲームは子供でも楽しめるということだった。
詳しい実験の分析と次へのアイデアはまた考えるとして、本と物語を使ったゲーム(であり、かつイベントであり、組織)の実現に向けて少なくとも一筋の光は見つかったよ、ということを様々な人に伝えたい。
最後に、これまで自分が考えてきたことと合わせて、リフレーミング・ゲームのコンセプトをまとめておきたい。ここは最大限にケレン味たっぷりにいきたい。
①全く新しい物語の方法を探求すること。物語にドップリと没入する環境を模索す る。
②作り手、書き手よりも物語の読み手、受け取り手(=物語を愛するが、自由に作り出すことはできない潜在的作者)の側にたち支援する。
③メモやノートなどのプレテクスト的なもの、リフレーミングによって作られるパラテクストをも完全な作品、アートとして捉える。
④物語による学び、癒し、救いを重視する。
⑤現実世界を拡張・代替しようとする。
……以上!
「千話一夜」から来るべき書物
物語を創るというお祭り
松岡正剛『物語編集力』
大塚英志『物語の体操』
『ゲームストーミング ―会議、チーム、プロジェクトを成功へと導く87のゲーム』
物語がもっともおもしろいのは、それが生まれる瞬間だと常々思っている。
例えばここに一個のアイデアがある。
「最近『海底二万マイル』を読んだから、何か潜水艦の話を書きたい」
これが物語の種だ。
ではこれを膨らませていこう。
潜水艦に乗っているのは何者か・・・人じゃなくロボットにしてみよう
なぜ潜水艦に乗っているのか・・・何かの任務だろうか
・・・もうずっと海底をさまよっているのかもしれない
・・・ノーチラス号のように隠れているのかも
・・・人間じゃないから浮上の必要もない
・・・もう何百年も海底にいるのかも
・・・じゃあきっと暇だろう
・・・ロボットが暇だと思うだろうか
・・・暇という感情を発見する
・・・では何をしているのか
・・・暇つぶしだろう
・・・どんな
・・・自分たちの歴史でも作り始めるかもしれない。とにかく暇で時間ならある
・・・たしかにロボットは自分たちの歴史を持たないから
という風に、「潜水艦の中に閉じ込められたロボットたちが、本を参考に自分たちの歴史や辞書や宗教を考え、人間の歴史をなぞっていく」という物語が生まれる・・・かもしれない。
よくこうした物語づくりを友人と酒を飲みながらしたが、わかったのは物語はひとりでつくるよりみんなでつくったほうが面白いということだ。
できれば酒か、でなければ珈琲などを飲みながら、暇にまかせてワイワイガヤガヤと話していくほうが、自室でうんうん唸っているより千倍もオモシロイ。これはもう一種のお祭りというか、祝祭として機能するのだ。
そして生産的でもある。
僕はあまり詳しくないのだが、演劇の世界には「ディバイジング」というものがあるらしい。劇作家と演出家と演者が集まり、話し合いながら即興で舞台を作っていくという作法なのだという。理論武装的な引用になるが、やっぱりそうした「祭り的物語創作」を実践している人間はいるんだなと思う。
調べてみると「実験的作品」を目指すとか、「地域交流・教育目的に役立つ」などと色々と目指すところがあってのものらしいが、その一番はやっぱり楽しいということだろう。
物語をつくるのは楽しいのだ!
だから以前から、僕は「千話一夜」というものを仲間内(といってもものすごく狭いのだが)で話していた。これはお祭り、ある種のイベントであり、ある種でパーティーの企画なのだが、とにかく一晩かけて互いに物語のアイデアを出しあい、それを膨らませて、場合によってはコラボさせて、発展させて、ひっくり返してみたりして、一夜で千の話をつくる勢いで物語をつくりまくろうというものである(その様子を録音して、そのまま書き出して本にしようという案もあった)。
個人的にはかなり熱いと思うし、是非ともいつかやりたいと思っているのだがなかなか実現しない。かなりの体力と気力を必要とするだろうし、やるのにそれなりの覚悟がいるからなのかもしれない。
とはいえ、この縮小バージョンなら実験してみたことがある。
5、6枚のイラストを題材に5人のグループでひとつの物語をつくるという企画だ。
ルールは三つ。
①イラストは全部使ってもいいし、好きなものだけをすきなだけ使ってもいい。
②全員で話し合ってひとつの物語をつくること。
③全員がペンを持って、ホワイトボードを使うこと。
実のところ時間を15分ほどしか用意できず、失敗する可能性の大きい実験だった。
そして実際、最初の5分ほどはイヤな空気が流れていた。
どのイラストを使う?主人公は?どんな物語にしようか?
そんな問いが交わされるが一向に進む様子がない。
たしかにゼロから物語をつくるというのは簡単じゃあない。助け舟を出そうかなと思ったとき、ブレイクスルーが起きた。
それは「この絵のキャラクターってロボットっぽくない?ロボットが主人公で『アトム』の話ってあったよね」という言葉からだった。
そこから『鉄腕アトム』でアトムが生みの親である天馬博士に捨てられてしまったというエピソードが想起/共有される。
・・・じゃあこのロボットもアトムみたいに捨てられちゃうんだよ
・・・じゃあこの絵のキャラが捨てた博士だね
・・・なんで捨てたのかな
・・・博士は子供がわりにロボットをつくった
・・・でも本当の子供が見つかった
・・・それでロボットは捨てられて、復讐を考える
と物語は一気に加速していった。もうここから完成までは早かった。この瞬間、僕はかつてない興奮を味わい、実験の成功を感じていた。
すごいのが、『鉄腕アトム』のプロットをなぞるところから始まりながら、全然違う方向へ物語が走っていくところだ。ロボットが捨てられる理由などはまるで映画『A.I.』だし、復讐譚になるというのも完全なオリジナルだ。
この後、個々にその日のプロットを持って帰って小説にするという宿題を出し、プロットは同じはずなのに各々の文体や視点や結末や物語の重点の置き所などがあまりにも異なっていることにまた仰天したのだけれど、この実験でわかったことは以下のようなものだった。
・共有できる物語の「型」を使うと創作しやすくなる。
・物語創作にはゲーム性が必要である。
・物語創作は、設定/枠物語があるとより容易になる。
・物語創作はやっぱり楽しい!
二つ目と三つ目は実はセットになる。例えば○○な理由で、○○な物語を作って、という目標があれば、最初の気まずい時間はなかっただろう。「自由に」というのは多人数での物語創作の場合、逆に創造性を削ぐものになってしまう。
だからある程度の「枠」が必要になるのだ。枠物語というのは文字通り「カンタベリー物語」や「千夜一夜物語」のアレ、TRPGでプレイのベースとなる物語設定のようなものだ。たぶんそういうところを工夫して物語創作そのものに物語性を持たせたらもっと盛り上げることができるのではないかと思う。
たぶん千話一夜の企画にもゲーム性と枠物語がなかったことが、実現しなかった一番の理由なのではないかと思う。
例えば最近のニュースを物語にデフォルメするとか、「こういう設定で物語を見ると?」というプログラムが足りなかった。
今度また大掛かりに物語創作の実験(と言うと私欲で利用しているようで表現が悪いが)をする機会があるが、そこでは既存の物語を組み替える/書き換えるという枠物語を設けて行おうと思っている。例えば物語の主人公を変える、バッドエンドからハッピーエンドに変える、等々だ。
おそらく、すばらしくエキサイティングなものになるだろう。見ている方からしても、目の前でどんどん物語で育っていく様というのは物凄いものがある。
またここで得たノウハウを活かして、さらに刺激的な物語創作のプログラムを立てられるだろう。
個人的には、これからはますます「普通の人が物語をつくる時代」になると思っている。宗教も主義も機能不全にあるグローバリズム真っ只中の先進国において、人間に生きる意味をもたらすのは何か。
それはやはり物語だと思う。『あまちゃん』でワイワイいっている人の中に、社会学・批評系の人間が多いというのはそういうことでなないのだろうか。アイドルの物語というより、物語がアイドル(=半信仰/半消費)として機能している。
物語が世界に意味を与え、崩壊を防ぐのだ。
この辺の話はミルチャ・エリアーデの『聖と俗』あたり(ド定番だが)を読むとよくわかる。つまり神話・聖なるものの存在があってはじめて、人間は意味を持つ世界観を築き、その中で生きることができるのだ。意味を失ったとたん、その宇宙は崩壊することになる。
ミルチャ・エリアーデ『聖と俗 宗教的なるものの本質について』
ジョゼフ・キャンベル『神話の力』
今はまだ、物語は与えられるもの、外から見つけてくるものだ。
しかし宗教、主義に次いで国家や民族という物語が機能しなくなり、家族という物語が空中分解し、そしてマスメディアによる物語の流通が途絶える日が来るかもしれない。
だから、ではないが将来的には、自分の中から自分の物語を引き出し、形にするという方法が必要なのではないかと考えているのだ。
それが「普通の人が物語をつくる時代」だ。
自分自身の、自分だけの神話を得ること。それがのっぺりとした世界を泳ぎわたっていく上での指針となり、アイデンティティとなるのではないか。
ここにはまた「ライフストーリー」「ナラティヴ」というキーワードが関わってくるのかもしれない。
またできた物語をどのような形で提示するのかという問題もある。小説というのを完成形とするなら、最終局面でやっぱりひとりで苦労してこしらえるという段階が発生してしまう。
かといってプロットだけでいいのか?アンビルトの物語でいいのか?
いや、細部も欲しいだろう。その辺の解決策はまだ全く見えてこない。
しかしテクノロジーが解決するのではないかという予感はある・・・。
そんな自分らしくもなく公共的な未来を見ながら、いつか「千話一夜」を実現させてみたいと思う。
「書けたかもしれない小説」から来るべき書物
『完全な真空』
スタニスワフ・レム
自らの誕生を描く小説は、後戻りの第一歩に過ぎなかった。今ではもう、小説がどのように生まれて来るかを示す作品を書くものなどいない。具体的な創作過程の記録などというのも、あまりに窮屈だ! 今、作家たちが書いているのは、ひょっとしたら自分に書けたかもしれないことについてである・・・・・・。
頭の中に渦巻くありとあらゆる可能性から、作家は個々の輪郭をつかみ出す。そして、普通のテキストとなることは決してないこれらの断片の中をさまようことが、現在、小説の防衛線となっている。
・・・そこで作家がかろうじて書くことができるのは、自分が書きたいと思ったことについての本を、いかにして書こうと試みたか、云々、についての本でしかない。
本を読めないという時期が定期的にある。
頁を開いても言葉が目に入ってこない。物語の進みに頭が追い付いていかない。
気が付けば物語内の時間進行を無視して頁を進めようとしてしまう。
本と頭がうまく同期しないのだ。
そんな中で読むのなら物語がない本の方が良い。むしろ、一文~一段落ぐらいに充分に魅力的な内容が詰まっているのが理想的だ。
そして本書はまさにそうした本のひとつなのだと言える。
スタニスワフ・レムは日本では『ソラリス』の作家として有名だろう。
外宇宙を舞台に人間の、というか人類の内宇宙を描き出すという、現在でも多い思弁SFの基礎を作った一人と言えるだろう。
彼の作品には往々にして「コミュニケーション」がテーマとして現れてくるのだが、どうやらレムは何か表現しがたい、人間の認識を超えたものをずっと描こうとしてきたように思える。小説の主題にはできても、小説の中で描くものとしては、最も不向きなものだ。
前述したように僕はこの本をひどく不誠実に、所々虫食いのように読んでいるにすぎないのできちんとした書評をすることはできないが、この『完全な真空』には文字通り真空(=欠如)によって描き出すほかない、そうした「実現不可能なアイデア」が生のままで表されているように思う。
本書は「存在しない本についての、架空の書評集」という構成を持っているが、そこでレムは小説というシステムが実現できなかった、むしろ「物理的に不可能」の一言で葬られてきたアイデアばかりをここぞとばかり実証しようとする。
例えば人類のすべての文化的キーワードを内包し、連想ゲームのごとく野放図に「注釈」を広げてゆく百科事典的小説。
例えば書くことの無意味について思考するあまり自分自身の存在をも否定し、消去してしまうにいたる「反小説」。
例えば読者に戦いをいどみ、罵詈雑言を投げつける二人称小説。
それ以外の比較的平凡な小説の構想と思われるものも、何か実現どころか存在すら不可能な概念を追い求めていく「否定神学の空虚に突進するような」共通のオブセッションをいだいている。言わば極めつけのヌーヴォー・ロマン(=反小説)的な思考実験こそが本書の魅力だが、おそらくそれこそレムの作品世界を支えてきた彼自身のオブセッションなのだろう。
そしてそれだけでなく、いや、それだけに本書は変幻するソラリスの海のごとく読者自身の「書く/読む」ことについてのオブセッションを顕にするだろう。
試しに何人かで本書の読書会を開けば、どの短編を評価するか、どの短編を否定するか、あるいはそもそも本書を受け入れられるかどうかでその人間の文学観がはっきりとすることだろう。
小説のアイデアとアイデアの小説
そして僕自身が本書を「小説についての小説」として注目しているのは、そこに冒頭に引用した数節があるからだと言って良い。
「ひょっとしたら自分が書けたかもしれないこと」
「自分が書きたいと思ったことについての本を、いかにして書こうと試みたか」
そうした想像上の「ありえざる物語」をいかにして表すことができるかということに、ぼくはずっと興味を持ってきた。
というのも、元々小説のアイデアとは小説によってのみ表されるべきなのか、小説以外は作品とは言えないのか、という疑問があったからだ。
例えば、建築において「アンビルト」という分野が大きな役割を演じたことは以前にも
また美術の世界においては「コンセプチュアル・アート」という潮流が存在していた。彼らは作品の構想、メッセージこそがコンテンツであり、実作はその仕上げとなる手仕事の細工でしかない、構想が価値であると看破した。特に「アート・アンド・ランゲージ」一派は言語による芸術を訴え、芸術の評論行為もまた芸術作品そのものなのだと宣言した。
今日ではコンセプチュアル・アートはむしろ普遍化し自明の存在となったが、彼らは美術における作品一辺倒の姿勢を吹き飛ばそうとしたのだ。
しかし文学はどうか?
ヌーヴォーロマンが特異なゲームとして消費されて以降、小説の「新しさ」はリアリズムとの向き合い方に終始していたように見える。
一方でそこに描かれた内容は「人物が登場し、それは幾人かの主要な人物とモブからなる」「物語は連続した、関連性を持つ事件からなる」「小説は精緻な記述、描写を伴う」「快楽の装置として機能する」などの条件を行儀よく守り、そして読者も(僕自身も)道徳家のようにどれだけ上品に、優雅にその条件を守れているかで小説を評価しているようだ。
とりわけエンタメ小説においては、ハリウッド映画の文法をそのまま活用した「新しい小説」が無数に生産されている。
確かにそうした小説はおもしろい。確かにそうした小説は大好きだ。
それはわかる。
だけど、こうして本が読めないという白夜のなかにいると、それとは違う物語の語り方がもっとあっても良いのではないかと思うのだ。
そのひとつとして、コンセプチュアル・アートのように普通の形では描けない物語を、コンセプトそのものを作品として重視することで提示する。そういう小説があっても良いと思うのだ。
ではそれはどういった本になるのだろう?
ボルヘスやレムはそれをすでにある書物の要約のノートによって実験した。
円城塔は僕には理解しきれない語りの多次元解釈によってそれを探究している。
そして僕は要約やノートですら同語反復的であると思う。
読むことについても書くことについても怠惰である僕は、メモなどどうかと想うのだ。
ノヴァーリス『青い花』
未完に終わった本書の後半、まとめられた構想
にこそ作者の世界観が現れている
エンリーケ・ビラ=マタス『ポータブル文学小史』
「小説の時代はもう終わったわ、これからは短い話や断章、序文、補遺、脚注といったもののほうがいいのよ」という台詞がある
アントワーヌ・ヴォロディーヌ『無力な天使たち』
SFと純文学の境界線上にあり、断片的で結末を欠いた四十九の短い章によって、
おぼろに大きな物語と世界が見えてくるハイパーテキスト小説
作品以前の、プロットの文法で書かれた物語のメモ。設定資料としてのメモ。
そうした作品以前である作品(プレテクスト)、断片的なメモ群による「書こうとした/書けたかもしれない世界」の物語。
それは究極の「予告篇の文学」となるだろうし、そもそも小説というものの作り方を変えることだろう。いや、それともこれは「書けない」人間の屁理屈にすぎないのだろうか。おそらくそうだろう。
しかし、だからこそ、そうした小説とされなかったものによる文学が現れることを、ぼくは夢見ているのだ。
「宇宙というのはできあがった本というよりも、何か本を書くためにつくるノートのようなものであると、そう考えているのです。」
ソレス・カルダリーニ
断片メモ、「未来派野郎」について
前回の追補として、“教授”/坂本龍一のアルバム=『未来派野郎』を紹介したい。
未来派の音楽化というより、彼らの活動をサンプリングしながら、そこから連想されるイメージを表したというべきか。
ブレードランナーやフィリップ・K・ディックといったSFのモチーフも盛り込まれている。
(このジャケット写真の撮影法も、スピードと躍動を示すとして未来派が好んだものである)
https://www.youtube.com/watch?v=34Io8nUTDhU
01.G.T.
02.Broadway Boogie Woogie
曲中流れる男女の会話は、イメージはマリネッティの考案した自由詩のスタイルを用い、映画「ブレードランナー」からワンセンテンスずつサンプリングして、それぞれ別の場所にあったものを会話風にコラージュされた。
03.黄土高原
https://www.youtube.com/watch?v=2bOFigXtK0o
04. Ballet Mécanique
時計が時を刻む音や、カメラのフィルムを巻き取る音などをサンプリングしてリズムを組み立てている。
05.G.T.IIº
06.Milan, 1909
“スペースコロニーの東洋人地区の端末で「未来派」を検索したときに流れるBGM”というイメージで作られた曲。1909年は詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティが未来派宣言を発表した年である。後半から現れる高次倍音を含んだ朗読はヴォコーダーではなく、マッキントッシュのソフトウェア「Smooth Talker」で作られた合成音。内容は細川周平による未来派の解説。
https://www.youtube.com/watch?v=JLLmbbCntLI
07. Variety Show
マリネッティの演説がラップとして乗る曲。タイトルはマリネッティ自身が演説会のことを“ヴァラエティー・ショウ”と呼んだため。サンプリングには機械音、放電の音、兵器の音、マリネッティの頃のピアノ曲など、「未来派」のキー・コンセプトに該当する素材を探し出して使われている。音声は「未来派」を意味する「フューチャーリスタ(Futurista)」がサンプリングされている。
08. 大航海 Verso lo schermo
09. Water is Life
10. Parolibre
フィリップ・K・ディックの近未来SFの世界の世界で、2056年ぐらいの遠い惑星に住み、ブロードキャスティングで地球から送られてくる放送を惑星のスペース・カプセルの中で聴いているというイメージで作られ、仮タイトルは「オペラ」であった。
説明はウィキペディアに代弁してもらった。
個人的なお気に入りはVariety Showか。騒々しさと攻撃性、その背後に高まる
不安感は当時の世相をよく捉えているのではないかと思う。
何より力強い「フューチャリスタ!」の喚呼が良い。
こうしたコンセプト・アルバムという作り方は最近では流行っていないのだろうか?
あまり耳にすることはないが、完全な傑作選でもなく、連作短編でもなく、同世界観を描いているのでもなく、ゆるやかに共通のイメージを持ち、かつひとつのアルバムで大きな物語を完結しているというやり方は、小説短編集の構成と比較してみるとおもしろいのかもしれない。
ともあれ、秋の夜長は未来派のテクノロジー・ガジェット愛に浸ろう!
おまけ
https://www.youtube.com/watch?v=HY8kVa0qB9Q
マリネッティの「未来派宣言」に朗読と演技、アニメを付けたもの(英語)
何気にBGMも良い。
断片メモ、幻想の未来派について
それは騒々しく、硬質で、スピードと大衆とテクノロジーを賛美した宣言によって始まった。
そしてそれはファシズムの熱に浮かされた軍靴の響きの中に消えていった。
Futurismo/未来派というのが彼らの活動の名である。
たしかに、彼らの活動はあまりに政治的であった。
彼らの戦争賛美はあまりに度し難く、テクノロジーによる人間進歩というヴィジョンは無垢に過ぎた。
しかし彼らの党派性よりも、その奔放な「予告性」を再評価すべきだ。
未来が陰惨な世界像を意味するものとなり、テクノロジーによって疎外された人間の悲鳴がこだまするいま、彼らの奇想と狂騒はファンタジーのようなまばゆい輝きを持っている。
未来派芸術家の多くに共通していたのは人工物へのオブセッションだった。なかでもデザイナー、舞台芸術家だったフォルトゥナート・デペロは群を抜いている。
彼は造形的バレエと名付けた自作の人形による演劇形態を構想し、人間性を廃し、観念的で抽象的なデザインを重視していた。
さらに「造形的複合体・未来派自由遊戯・人工的生」「未来派による宇宙の再構築宣言」という二つの宣言書によって、世界を幾何学的図形からなる人工的風景や自動的に動く金属動物の総合芸術的演劇へと置き換えることを謳ったという。まさに、世界を舞台化する目論見である。
未来派の冒険が確信しているのは、すべてにわたる機械的形態の勝利、悪夢(cauchemar)や非凡なものの文学
ロベルト・ロンギの批評 田中純『冥府の建築家』より
未来派飛行機協会というのも、その奇妙さで際立っている。
未来派の若い世代のなかで新しい移動機械のジャンルを(例えば自転車や汽車や自動車に代わるものを)発明するという情熱が流行したことがあり、飛行機はその中でも最も期待が集まった分野であった。この時期多くの幻想的としか言えない飛行機械のアイデアが提案されたという。
結果、未来派飛行機協会はひとつとして実際に機体を完成させることはなく、未来派のなかのアンビルトといった具合で、いまではこの集団が本当に存在していたのか疑わしいほどである。
あまり特集されることはないが、未来派の文学者たちというのも一癖も二癖もある人物たちだった。
音楽家でもあったソレス・カルデリーニは譜面を発表するように『カルデリーニ小説構想集』を出版している。日本ではその内容を引用すらも見ることはできないが、そこに収録されていたのは短編ないし、長編のアイデア「のみ」であって、どれもプロット段階の未完成作ばかりであったという。カルデリーニはそれをさも完成した作品であるかのように扱い、一方でそれらが未完成であることを誇ってみせたりもしたそうだ。
あるいは未来派のかなり後期に活動したフォルナーラは貧困のためにイタリアの南へ南へと移動しながら推理小説を書き続けたが、途中で小説とはなんと効率の悪い形式かと憤慨し(今で言うならコスパが悪いということだろう)、自身の小説のシナリオをタロットカードのような紙片に分割して印刷し、読者が自分で組み替えて読む遊戯にして販売しようとした。
スイス出身の実業家にして芸術後援家で自身も小説などを手掛けていたジルヴェール・クラヴェルはこれを評価したそうだが、実現していたらハイパーテキストのはしりになっていたかもしれない。
またトトー・ベッリは未来派の本来の意図を忠実に実行することのみを考え、イタリアの旧来の伝統美術を乗り越えるため、そうした作品に未来派的なテクストを書き加えることを考えた。彼の作品は正方形をしたページに印刷され、中央に美術作品の模写、周囲の空白に彼の文章がびっしりと書き加えられたものだった。
ベッリは自身のこうした手法を「注釈的創作」と呼んで周囲にも推奨していたそうだが、好戦的な未来派作家たちには彼のやりかたは容れられなかったらしい。
こうした「ホラ話」のような芸術家たちは、いわばモダニズムのロマン主義者として評価の日を待っているのである。