断片メモ、あたらしい物語について
これ(アルフレッド・ジャリの『絶対の愛』)は五十ページほどの小説で、それぞれ完全に異なった三つの物語として読むことが可能です。すなわち、(一)ある死刑囚の執行前夜の独房における観念、(二)不眠に苦しむ男が、半睡半醒のうちに死刑の宣告を受ける夢を見るという独白、(三)キリストの物語、です。
イタロ・カルヴィーノ『アメリカ講義 新たな千年紀のための六つのメモ』より
ジャリを読んだことはないが(書店で前衛音楽の楽譜のようにユニークな著作は見かけた)カルヴィーノは本書で「超・小説」という観念を提示し、その例としていくつかの小説を紹介している。
その一つが自作の『冬の夜ひとりの旅人が』であり、彼曰く「小説的なるものの本質を長編小説のいずれも冒頭だけの十篇に凝縮して示す」ものであった。
また一つは同じく彼の『宿命の交わる城』であり、「一組のタロット・カードのような、多様な意味を可能性として備えている図像的要素から出発して語りを増殖させてゆく」ものだという。
そしてまた一つとして紹介するのが、ジョルジュ・ペレックの『人生 使用法』である。
アパルトマンの五階建ての一室ごとに一章をあて、それぞれの住人やしつらえや部屋や住人の歴史をも巻き込んだ物語を描くとともに、それら短編の交差によって長編を展開するという幾何学的な、機械装置的な、カルヴィーノは「百科全書的」とも言っている独特の構造を持った本であるが、それらの共通点としてカルヴィーノが挙げるのは「語り得ることの潜在的な多様性の抽出見本」であるということだ。
これで「超・小説」とはどういうものか、わかっただろうか?
つまり、直線的物語という小説の約束を壊して、並行宇宙を束ねる様にすべての、あるいは複数の物語を語ろうというとすること、小説の構造への実験性、それがカルヴィーノが「超」という言葉をつけてあらわした新しい小説である。
このようにカルヴィーノは多様性を擁護する。また異なるモノ同士の意外な組み合わせのおもしろさを奨励する。
そこから思いついたものとして、例えばこんな遊びはどうだろうか?
まったく関係のない、短い小説(または小説の一部)を複数読ませる。そしてそれらはみな一人の作家の作品であると伝え、作品からその架空の作家の世界観を想像してもらうのだ。あるいは「手のうち」がわかっていても、作品に意外な新たな見方をもたらすかもしれない。
またもう一つ、カルヴィーノにならって打ち壊したいと思っている小説の約束が僕にはある。それが、「小説は読み解かれなければならない」ということである。
僕が常々思うのは、ある小説が伝えられるのは、究極的にはその小説についてだけなのではないかということだ。であるとすれば、なぜ遠回しな、効率の悪い引き伸ばしをするのだろうか?
だったら小説のなかにおいて、その小説について説明してしまってはどうだろうか?
だからその小説の主人公はその小説自身で、書き出しはこう始まるのだ。
「わたしはこの小説である。わたしのなかに書かれている内容とは・・・」
そこで小説はときに自分が書かれた意味を見失ったり、筋を失念したり、読者に食って掛かったりするかもしれない(あるいは自分をそのように書いた作者に怒るかもしれない)。
そんなのはやっぱり虚構の遊びでしかないかもしれないが、作者がすべての小説の仕掛けやテーマ、コンセプトという手のうちをばらしてしまって、むしろそういった構造をメインコンテンツとすることもできるのではないか(批評なんかは他人が作った物語のそういう構造を見世物にしているわけだ)。
そうしたコンセプトの、アイデアについての本というものを日々考えているのだ。